Dear






 1月だ。身を切るような寒さにも慣れ、多くはないがそこそこ降り積もる雪景色の中を学校に通うのも、もはや毎日の風景だ。
 今まで月森が住んでいた地域では雪がふることが少なかったので、最初の頃は雪が珍しく、自分にしてはずいぶんとはしゃいだ気持ちになった。昨年末の事件が解決し、今の自分達には何の憂いもないからからだろうか。叔父も菜々子も無事に退院し、先日は三人で雪だるまを作って遊んだりした。
 寒いけどあたたかい日々。
 だが、ふと感じる。何かが欠けている感じ―――。



 夕食を終え、菜々子と他愛もない話を交わしながら過ごしていると、電話が鳴った。堂島だ。いつものように仕事で遅くなると連絡を受け、家のことは任せてくれと言い受話器を置く。様子を見ていた菜々子が、寂しそうな表情でこちらを見ていた。
「お父さん、遅いの?」
「うん。今日も残業だって、だから今日は俺が寝るまで一緒にいるよ」
「本当?」
「ああ」
 微笑んで答えると、菜々子は照れたようなはにかんだ笑顔を浮かべた。
「菜々子、もう一人でも平気だよ」
「じゃあ、俺が寂しいから一緒にいてもいいかな」
「ふふ。変なお兄ちゃん」
 そう言い合ってそっと微笑みあう。なんて温かい。4月にはまた両親のもとに戻るべくここを離れねばならないことが本当に残念だった。
 特別捜査隊のメンバーも来たる別れのことを見据えてか、最近頻繁に集まって遊びに行くことが多くなった。ただ、ジュネスに集まることもあれば、買い物やカラオケに出かけたり、スキーやスケートなどのウィンタースポーツにもみんなで行った。雪景色の露天風呂もいいよ、なんて話になってまた天城屋旅館に宿泊したり、となり町においしいラーメン屋があると聞けば長い行列に揃って並んだり。それは時に菜々子や堂島も同伴することがあり、賑やかでとても楽しい時間だった。
 あと二ヶ月、まだまだ楽しい思い出は増えるのだろう。だが、時々言いようのない寂寥感に悩まされることがあった。ここを離れる寂しさとは違う。別れに対して割り切れない気持ちを持っていることはちゃんと自覚しているのだ。だが、この漠然とした空白は何なのか……心当たりがなくもない、が、それを認めるには気持ちの整理がついていかなかなかった。だから、気づかないふりをしているのかもしれない。本当はもうとっくにわかっているのに……。
「お兄ちゃん?」
 ふと、菜々子が心配そうな顔でこちらを見ていることに気がついた。いつの間にか思考の海に沈み、黙りこんでしまったせいだろう。慌ててなんでもないよと答え笑いかけるが、菜々子の表情は晴れない。
「お兄ちゃん、時々すごく難しい顔してる。……お父さんみたい」
 その言葉にどきりとした。
 堂島の“難しい顔”に思い当たることがあるからだ。それは未だに追い続けている菜々子の母の事後のことだったり、先日はまで地元を騒がせていた事件のことであったり、菜々子とどう接していいか悩む姿であったり、いろいろであったが。堂島は決まって眉間に深いシワを寄せ、思い悩んでいたのだ。最近ではあまり見かけなくなったが、時折そうして何かを思い悩んでいる。
 特に最近堂島を悩ませている原因を知っている。話題にしたことはないが、堂島が彼のことを考えていることがわかった。どうして堂島の考えていることがわかるのか。それは自分でも解せぬ話ではあるが。
 なんだか気まずくなった雰囲気を、唐突にテレビから流れるCMが絶ち切った。
「ジュネスだ!」
 菜々子がそう言って、CMに合わせて歌いだす。月森もそれに倣った。
 CMが終わると菜々子がにこっと微笑む。彼女のこうした天真爛漫さは彼女の優しさそのものだと思う。そこに、とても救われる。



 その後は特に気まづい感じもなくなり、学校やテレビの話題に花を咲かせ、穏やかに過ごした。
 菜々子を寝かしつけ、居間に戻ると、まるでこのタイミングを見計らったかのように堂島が帰宅していた。いつの間に帰ってきたのか、ソファにどっかりと座り込んこみ、タバコを燻らせている。
「なんだ。起きてたのか」
 月森の姿を確認すると、堂島がそう言った。まるで寝ていて欲しかったみたいだ。
「菜々子、今寝たところだよ。叔父さんが帰ってくるまで起きてたかったみたいだけど……」
「そう、か……」
 申し訳なさそうな顔で堂島が呟く。菜々子とタイミングが合わない時、堂島はこうやって複雑そうな様子を見せるが、今日はいつになく力がない。まるで別なことに気を取られているようだ。
「叔父さん、何か、あった?」
「いや、心配するほどのことじゃあないんだ」
 堂島が苦笑してタバコをもみ消す。堂島はちゃんと話をするときにタバコは吸わない。未成年に毒だと思っているフシもあるようだから、気を使われてしまったようだ。
「コーヒー入れてくる。お前も飲むか」
 そう言って立ち上がった堂島にうなづいてみせる。堂島は短くわかったと応えてキッチンの方へ行った。その後に続いて、ダイニングテーブルに座って待っていると、程なくコーヒーの良い香りがした。
 ことり、と目の前に置かれたマグカップを手に取り礼を言う。それに堂島は笑顔で返してくれたが、すぐに表情が硬くなった。
 無言でコーヒーを口に運ぶ、しばらくして重々しく堂島は口を開いた。
「お前には、言っておかなきゃだと思ってな」
 なんのことか分からず首を傾げる。
「足立が起訴されたのは話したな?」
 その名前に少しだけ動揺してから、うなづく。
「初公判の日取りが決まった……これで」
 これであいつは正式に罪に問われる。あとに続いた言葉は無理に搾り出すような声だった。
 月森はその様子を複雑な心境で見つめる。目を背けてしまいそうになるのをぐっとこらえ、口を開く。
「いつ……?」
 その問いに堂島が顔をしかめた。
「傍聴しに行きたいとかじゃないんです。ただ、知りたくて」
「そうか……」
 しばしの沈黙。
「2月1日だ」
「もうすぐじゃないですか」
「ああ、あいつの言ってることに不明な点はあるんだが、何より自供が効いててな。上も早く事件を片付けたいんで、、話はトントン拍子に進んでるんだ。裁判自体もそう回数を重ねることはないと思う」
「そう、ですか……」
 月森には刑事事件がどのように処理されるかという知識がない。ただ、ニュースなどでやっている殺人事件は長期間裁判で争っているイメージがあるので、昨年末に逮捕されたばかりの足立がもう実刑を受けるというのは実感がわかなかった。そもそも、殺人罪にはどれぐらいの実刑が下されるのかも分からないのだ。
「結果……」
「ん?」
「裁判の、結果……わかったら教えて下さい」
「ああ、わかった」
 堂島そう短く答えて黙りこむ。手元のマグカップに視線を落としたまま、何かを言いかけ口を引かいては閉じる。そんな様子に見て見ぬふりをする。
 話したいことがある。だが、話したくない。きっと堂島はそんなふうに思っているはずだ。それは月森とてそれは同じだった。だが、堂島も自分もあえてその話はして来なかった。必要最低限の情報は聞かされた。逮捕の瞬間に関わったというのもあるが、何より彼が堂島家で過ごした時間のお大きさ故に、近しい人として知っておかなければならないというような雰囲気があった。
 ふっと、吐息のような苦笑が聞こえた。
 堂島が目線を下に落としたまま、顔を歪めている。笑っているのか苦しいのか、どちらとも判断できな表情だ。
「俺は、家ではこうやってコーヒーを淹れるだろ」
 それは堂島が亡き妻と約束したことだと聞いた。そして、月森も家族の証としてマグカップを送られた。堂島の入れるコーヒーはとてもあたたかい、優しい味がした。
「だがなぁ、職場ではカップなんぞ持って行っても鈴に書類に埋もれて割っちまう。だからいつも、あいつに、足立に自販機のコーヒーを買わせに行ってた」
 そういえば、コーヒーはまだかと怒鳴られている足立を見たことがあったのを思い出す。
「足立自身はコーヒーが好きじゃないらしくてな。俺が頼むついでに買ってきたことはほとんどなかった。奢ってやるって言っても、だったら俺はこっちのココアがいいですなんて言いやがってよ。お前は子供かってんだ」
 話しだすと止めどなく言葉があるれるのか、堂島はいつになく饒舌だった。こんなに話す姿を久しぶりに見た気がする。
「子供、だったんだろうなぁ……」
 ぽつりとつぶやかれた言葉に胸が痛くなる。そう、彼は子供じみたわがままで世界をめちゃくちゃにしようとしていた。テレビの中で見たことを堂島に話したりはしなかった。だが、堂島は表面上の頼りなさからくるものではなく、彼が本質的に持っている気質を理解しているようであった。だから、なんかやんかと面倒を見て、家に招待したり、飲みに出かけたりしていたのだろう。
 堂島が話の続きを再開する。
「いつも買わせてるばっかりだったからな、ちゃんとしたコーヒーをあいつにも飲んでもらいたいと思ってた。職場でもインスタントコーヒーは常備されてたからな。マグカップの持ち込みも自由だったから、持って来いって言ったんだが、あいつは持ってませんとか言いやがってな。買えって言ったらお金無いですなんて情けない声出しやがった」
 そこで堂島が言葉を切る。しばし逡巡してから、ポツリと呟いた
「それぐらい買ってやったって良かった。特に理由もないのに渡すのも憚られて結局贈りそびれたままだ」
 寂しそうに呟く横顔を見ていたくなくて目を背けた。もしも、彼が犯罪を犯さなければ、今頃は彼のマグカップまで家にあったのかもしれない。4人で堂島の入れたコーヒーを飲む様子を想像しかけて、慌てて頭を振った。そんなのは何の意味もない。もしもなんてないのだから。
「せめて誕生日とがあれば、理由もつけやす……ああ、どうして気が付かなかったんだ……!」
 堂島がはっとしたように顔を上げる。驚いて堂島を見やると、堂島はどこか遠くを見る容易に呆然として呟いた。
「……1日だ」
「え?」
「2月1日なんだ……あいつの誕生日は……」
「……2月、1日……」
 それは先ほど聞かされたばかりの足立の初公判の日付だった。こちらも唖然としてオウム返しのように呟いてしまう。
 堂島がくしゃっと顔をしかめた。
「生まれた日に裁かれるなんてな……自業自得だが、あいつもなんて……」
 その先は聞き取れなかった。聞こえなくてもわかる気がしたが、あえて考えないようにした。
「馬鹿なやつだ。本当に」
 そう吐き出す堂島に、月森はただ俯いていた。
 堂島の言う通り、馬鹿な人だと思った。子供のような我侭で世界をめちゃくちゃにしようとしていた。思うとおりにならないことに当たり散らし、それをゲームとして楽しんでいた。馬鹿な人だ。そんなことでは何も救われなかっただろうに。馬鹿な人だ。こんな風に思ってくれる人がいたのに。馬鹿な人だ。一度考え始めると胸が締め付けられそうに苦しい。そんな自分が一番馬鹿だ。
 カタッ、とふすまの開く音がした。
「足立さん、誕生日なの?」
「菜々子……起きてたのか」
 驚いたように堂島が腰を浮かす。月森も内心動揺を抑えるのに必死だった。
「うん。お父さんの声がして、でも、難しいお話してるみたいだったから……」
 少し前から立ち聞きしていたのだろう。菜々子が申し訳なささそうに小さくごめんなさいと呟く。
 堂島はゆっくりと首を振り、菜々子を責めはしなかった。
「悪かったな、起こして」
 そう言う堂島に、菜々子はゆるゆると首を振る。そうしてからポツリと呟いた。
「誕生日なら、お祝いしたかったね」
 その言葉に、月森はぐっと拳を握り締めた。喉元に出かかった何かをキツく抑えこみ、つい、助けを求めるように堂島を見てしまった。
 だが、動揺している月森に反して、堂島は優しく笑みを浮かべていて、菜々子の傍に移動するとその頭を優しく撫でたのだった。
 何も言わず、ただそれだけのことだったが、菜々子は満足したようだった。嬉しそうに笑うと、「おやすみなさい」と言って、寝室に行ってしまう。
 親子の、言葉によらないコミュニケーションに圧倒されながら、月森は拳に込めた力を抜いた。
 菜々子には、足立が一連の殺人事件、誘拐事件の犯人だと説明してある。しょっちゅう堂島家に遊びに来ていた足立が突然来なくなったのだ。菜々子が疑問を口にするまでそう時間はかからなかった。それを、菜々子が子供だからといって、嘘や誤魔化しで説明することを堂島がよしとしなかったのだ。もちろん、事細かに事情を説明したわけではない。足立は悪いことをした。だから罪を償うところに行くのだと、最終的にはそう言って聞かせた。
 だから、菜々子にもわかるはずなのだ。足立が恐ろしい殺人者であることぐらい。だが、彼女にはそれだけではないのだろう。純粋に誕生日を祝ってあげたいと思うくらい、あの人を近しく感じているのがわかった。
「なんて顔してる」
 いつの間にか月森の傍に来ていた堂島が、軽く月森の頭を小突く。
「文句がありゃ、そのうち直接言ってやれ。何もあいつは死んだわけじゃないんだ」
「え……」
「なんだ、違ったか。だったらまぁ、気にするな」
 堂島困ったように苦笑する。それに、月森は急に自分が小さな子供になったように感じた。「違わない」とは言えなかった。
 そうして、堂島は冷めかけのコーヒーを一気に煽ると、明日も早いから休むと言った。カップの片付けぐらい流行ると申し出ると、堂島は少しだけ逡巡してから、「お前も早く寝ろよ」と返してくれた。それに頷き、堂島を見送る。

 深夜に一人で立つ台所は少しだけ寒かった。
 マグカップを二つ洗って、元の戸棚に戻す。家族の分だけ3つ。綺麗に並べてから、物足りなさを感じて、慌てて頭を振った。
 ああ、ひどい。欠けてるものなんて何もないのに。
 なんて、ひどい。そう思わせているものが何なのか、まだ気が付かないでいたかったのに。
「……馬鹿な人だ」
 月森はそれだけ呟いて、自分の部屋へ戻った。





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