TOMATO





「足立さん、とても綺麗ですよ」

 そ知らぬ顔でそんなことを言い放つ綺麗な顔を衝動的に殴りつけなかったことを褒めて欲しい。
 どのリアクションが正解か、なんて考える余裕もなく、足立は目の前の人物に怒鳴りつけていた。
 正直、なんて怒鳴りつけたかなんて覚えてない。
 だって、そうだろう? くたくたに疲れてもうすぐ家にたどり着けると思った、その瞬間に目の前に現れた良く見知った高校生にトマトを投げつけられたのだから。
  しかも、茹でたあとなのか柔らかくちょっと力を込めただけでドロドロになるやつを、だ―――――。



「だから、謝ってるじゃないですか。洗濯もクリーニングも俺がやりますし。それに、明日着るものに困らないように、新しいスーツまで買ってきたのに……そりゃ、あまり高いものは買えませんでしたけど」
「何その準備の良さ!? わけがわかんないよ!」
 先ほど玄関前でひとしきり怒鳴り散らしていると、件の高校生、月森が「まぁまぁ、ご近所迷惑になりますし、ちゃんとお詫びしますからとりあえず家の中に…」なんてうまいこと足立を言いくるめて、家にちゃっかり上がりこんできたうえにこの言い草である。
「イタズラにしては悪質だよ、ホントに。これ、立派な犯罪行為にもなりかねないからね? というか、友達にやったら嫌われるよ、確実に」
 言外に、僕は君が嫌いだ、と付け加えたつもりだ。
「はい。なので、足立さんに犠牲になってもらいました」
「僕、そんなに君に嫌われるようなことしたっけ……」
「いえ? 大好きですけど。すいません。好きな子にいたずらしたい年頃なんです」
 いけしゃあしゃあと言い放つ姿に憎しみすら湧いてきそうだ。だがしかし、この高校生は自分の上司の甥っ子で、自分としてはあまり波風立てたくない人物でもあり、さらには人当たりのいい刑事さんという立場を崩したくないが故に遠ざけることも出来ず……。結果、こうしてこの不思議な高校生の理不尽な行動に振り回されるのだ。くそ、早く例の事件の捜査ごっこで死んでくれないだろうか!
「うん…なんかもう怒りを通り越して泣けてくるんだけども、ホントもう疲れてるから今日は帰ってもらっていいかなぁ」
「え、せっかく、足立さんに晩ご飯を作ろうと思っていろいろ買ってきたのに……そんなつれないこと言わないで下さいよ」
「その買ってきたものの中にさっきのトマトがあったのか…」
「いいえ、あれはうちで茹でてきました」
「だから、何なのその無駄な準備は!!」
 ツッコむ足立に対して、月森はにこにこと楽しそうだ。ああ、それにしてもいい笑顔である。いっそ殴りたい……。
「やっぱり、足立さんって赤が似合いますよね」
「うえええ!?」
 未だトマトまみれでいた足立に月森の手が伸びる。胸元にべったりとこびりついたトマトを指先で掬い取ると躊躇なくそれを口に運んだ。こちらが唖然としていると、ふむ、と吟味するように指先を見つめている。
「こうしたら足立さんの味がするかと思ったんですけど、よくわかりませんね……」
 君って相当な変態だよね! と叫びそうになるのをぐっとこらえた。正直、泣きたい……。
「あ、足立さん、スーツもシャツも早めに染み抜き処理をしておいたほうがいいと思うので、早く着替えたほうがいいと思いますよ?」
「あー、うん。もう、そうするからさ、今日はもう帰ってくれないかな。僕もう本当に疲れてて、今日は君の相手、できないからさ。その、買ってきてくれたものは家に持ち帰って堂島さんや菜々子ちゃんにふるまってあげるのが一番だと思うし」
「脱ぐのも辛いほど疲れてるんですか? じゃあ、俺手伝いますね」
「ねぇ! 今の僕の話聞いてないよね!? 会話成り立ってないんだけど!?」
 足立の抗議も虚しく、月森はいそいそとこちらの服に手をかけてくる。もちろん、おとなしく脱がされる足立ではない。あわてて月森の手を振り払うと、1,2歩後退る。
 残念そうな顔で足立を見つめてくる月森が心底怖い。
「そんな、恥ずかしがらなくても……同じ男同士じゃないですか」
「だから余計に気持ち悪いんじゃないか!」
 あ、いっちょ前に傷ついた顔とかしてる…。だがしかし、言ってしまったものはしょうがない。波風立てないように、なんて無理だ。というか、多少きつく言った所でこの少年は自分にあれこれ付きまとうのだからもう気にしないようにしよう。というか、もう考えるのが面倒くさい。
「着替えもクリーニングもその他一切合切自分でできるのでお構いなく! さ、君はもう夜も遅いんだから帰りなさい」
「え、そんな。こんな夜遅くに一人で帰れとか冷たくありませんか?」
「……」
「いつもなら、高校生がこんな時間に出歩くのは良くないとか言ってくれるじゃないですか」
 確かに、夜、この少年に絡まれた時そうやって追い返すことが多々ある。だがそれは体よく少年を追い返すための方便でもあり、実際にこいつが夜中にほっつき歩いてどんなトラブルに巻き込まれようがこっちの知った事ではないのだ。警察官にあるまじき考えだが。
「……だからこそ、早く家に帰ったほうがいいって言ってるんだけど」
「足立さんが送ってくれるなら帰ります」
「なんで僕がそこまでしなきゃなんないのさ!?」
「今日は泊まってくるって言ってきちゃったので、帰るにしてもそれらしい理由が欲しいんです。具合が悪くなって送ってもらったとか」
「今すごい適当に言ったでしょ」
「わかります?」
 えへへ、なんて顔で笑うんじゃない! どうあってもこの少年はここに居座りたいらしい。ああ、もう面倒くさくなってきた。こういった面倒くさがりの性分が余計に月森の行動を助長させていることには薄々気がついている。だが、真面目に相手をしていると疲れる一方なのだ。だったら早々に投げてしまうのが足立という男だった。悪循環である。
「ああ……もう、いいよ。好きにしてていいよ。だけど、僕は疲れてるから君の相手はできな……」
「ありがとうございます! 足立さんはやっぱり優しいですね」
 足立が言い終わらないうちに月森が遮るように謝辞を述べた。足立の言いかけた後半部分の内容は聞くつもりがないのか。
 足立はため息をつき、月森に背を向け、のろのろと部屋の中央にあるローテーブルの傍に座り込んだ。テレビに集中するふりでもして少年を無視しようと思いつき、リモコンを探して周囲を見渡す。いつも横着して自分が座る周辺にものを置いているおかげで、それはすぐに見つかった。手に取ろうと座ったまま体を伸ばし、リモコンに手を重ねる。と、さっと目の前に影がさし、リモコンにかけた手に他人の手が重なる。他人とはこの場合、月森のことだが。
「テレビ見るより先に着替えたほうがいいと思いますよ?」
 月森がニッコリと笑って言う。こちらの手の下からするりとリモコンを取り上げられ、ぐっと肩に力がかかった。
 はっとして顔を上げると、やけに楽しげな月森が覆いかぶさるようにこちらにのしかかってきた。「しまった」と思い、反射的に身体を支えようと背後に手を伸ばすが、その手が乱雑に置かれた折込広告か何か(死角になって見えないが、たぶんそんなたぐいのものだ)に滑って、勢い良く後ろに倒れてしまう。
「っつ…!」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないでしょ!?」
 そうこう言っている間に、両肩を抑えつけられ、月森が馬乗りになる。勘弁してくれ……。今ぶつけたばかりの頭部が別な意味でも痛くなる。
「ちょっと、何してんの……」
「着替えの手伝い、です」
 始終楽しそうな表情を顔に貼り付けながら、月森が足立のネクタイを解く。手つきに迷いがないのが気持ち悪い。更にシャツのボタンにも手をかけてきたので、慌てて手で制すが、逆にその手を捕らわれてしまう。きゅっと手を握りこまれて、背筋が薄ら寒い。
「シミになっちゃいますから……ね?」
 聞き分けのない子供に言い聞かせるようで、ぞっとする。
 この少年はあの手この手で我を通そうとする。その執念がどこから来るのか甚だ疑問ではあるが、知りたいとはまったく思わない。というか、聞かされても理解できまい。
「わかった、わかったから。ちゃんと着替えるから、どいてくれる?」
「いえ、このままでも大丈夫ですよ」
「どこが!?」
「ちょっと協力してもらえれば、簡単です」
 押し倒した状態で服を脱がすのを簡単と言い切るこの少年の将来が恐ろしい。いや、もうすでに恐ろしい。
「……君、ご飯作りに来たって言ってなかったっけ」
「それはあとでちゃんと作ります」
「メインの目的はこれ……僕を脱がすこと、なの?」
「バレちゃいましたか」
 この状態でわからないほうがおかしい! 汚しちゃったんで着替えましょうねってベタなエロ本でもめったに見ないぞ。
 げんなりしていると、唐突に唇にやわらかい感触。ちゅっと可愛らしい音(と表現するのが甚だ遺憾ではある)がして、重なっていた顔が離れる。
「……ベタすぎる」
「足立さん相手には直球勝負じゃないと伝わらないでしょう?」
 つい、思ったことをそのまま口にしたら、平然と言い返された。これのどこか直球か。豪速球には違いないが、暴投すぎる。
 もう月森がシャツに手をかけるのを止めようとは思わなかった。彼の気が変わりでもしない限り、抵抗しても気力と体力の無駄だと判断して、だんまりを決め込む。
 これ以上頭の痛くなる会話は放棄させて欲しい。そうは願っても、話術の巧みな月森にあれこれと言葉を引き出されてしまうのだが……。
 そういえば、お腹が空いたな……そんなことを考えて、足立は目の前の少年からしばし逃避することにした。
 それもすぐに不可能になるのだが、それはまた別のお話―――――。





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